夜のつぶやき

「おっそ!」って感じかもしれないけど、昨日コタツ布団を洗濯して片付けた。コタツ布団の上で丸くなって眠る愛犬が可愛いくてね。寝顔をよく見つめてた。14歳の愛犬は、仕事から私が帰っても気付かないで寝ていることが増えてきた。眠りながら苦しまずに亡くなって欲しいけど、まだまだいなくなったらやだ。

 

先日、午前10時の映画祭で「突然炎のごとく」を観たんだけど、私の母も劇中に出てくる女性と同じく、「背中を掻いて」とよく周りにお願いしてた。兄も私も、爪に粒子溜まるからやだーとか言ってふざけて逃げて、いつも父が両手で掻いてあげてた。服をベロンとめくるから、前から見てると乳首丸出し。ソファーに2人並んで背中を掻いてる姿は、猿がノミ取りしてるみたいで可愛かった。

 

引っ越してから母がとても元気でよく笑う。今みたいな毎日がずっと続いて欲しい。平凡は努力の上にしか成り立たない。道なんて簡単に踏み外せる。

 

みんな違って、みんなそれぞれ魅力があるってよく思うのに、なんでそれに自分が含まれてるって思えないんだろう。何も持たず、何も出来ない自分のまま、ここまで来てしまった。

 

母の口から

うちの母は新井浩文さんのファンである。

 

数日前、母に「新井さん、しゃべくりに出るってよ」と伝えた。私も見るつもりだったんだけど、ソファーで寝落ちして見逃した。今日の電話で母に新井さんどうだったか聞いたら、

 

「面白かったよ!青森弁の事とか、ちょっとエッチなこと言ったりとか」

 

って言ってて、62歳の母の口から「エッチ」ってワードが出たことが妙に気恥ずかしくて笑った。

 

今日のほぼ日の山田ズーニーさんのコラムが面白かった。「自分の全部の顔を誰かしらにだせるようになった。」って文で、今の自分はそうかも、と思った。歳を重ねてそうなってきた。1人の人にってことじゃなく、色んな人に見せてる私を全部集めたら、きっと私になる。この人には私のこういう面を知ってもらえてる、って勝手な安心感の集合体。誰にも、本当に誰にも見せれない面を持ってることって辛いことなのだろうか。

バイトの思い出

どうもです。
元気です。母も愛犬も元気です。

 

今日、スーパーでカップ麺の「ラ王」を見つけて思わず購入。

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(野菜も取ってるよアピール)

 

カップ麺が廃番になって袋麺になったとこまでで記憶が止まっていたよ。カールもまたいつかシレッと全国販売されても揶揄しないからさ。戻っておいでね。

 

そいでね、ラ王を作りながら思い出した事があるんだけどね。高校の頃、コンビニでバイトしていたんだけど、そのコンビ二はポットがカウンターの内側にあって、カップ麺の薬味やらを私が開けて、お湯を注いで、容器の何箇所かをセロテープで留めてお客さんに渡していました。今思うと超絶めんどくさーーーっ!なんちゅう手間だ!せめてそのサービスはカップヌードル限定にしてくれ!でも、その頃は特段それが手間だとは思ってなく、じゃあ何に1番鬱陶しさを感じていたかというと、混雑してる時の宅急便ですよ。あと、おでん迷いまくる人ね。

 

そのバイトは小学校からの友達も働いていたので、その子と一緒のシフトの時は、「このドリンクの棚で1番好きなのは、せーのっ」とかって指さして笑ってました。今ではありえませんが、レンジの上に参考書を置いて、テスト前は勉強したり・・・気になる本を立ち読みしたり・・・販売期限が過ぎたポテトを2度揚げして食べたり・・・ブリトーの袋に切れ目いれずに温めて爆発させかけたり・・・ほんとすいません。ブリトーって買った事ないけど美味しいのかな。

 

エロ本をレジに持って来て、お財布を車に忘れたから取りに行くといって出ていって、ガラス越しにじっとこちらの様子を見てたおじさん。エロ本じゃこちらは大して動じませんよ。そういう性癖の人もいるんだ・・って教えてくれてありがとう。赤面できずにすいませんね。

実感した話

昨日、映画の終わりに、歩道橋に登った。

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以前、1人でいたい時や、なんとなく家に帰りたくない時に、そこからボーッとテレビ塔を眺めていた。久しぶりに登ってみて、今はここで時間を消費しなくてもいい自分であることを認識した。

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音楽をシャッフルで聴いていて、昔なかなか寝付けない時によく流していた曲が流れた時、あぁ今の自分はこの曲が無くても大丈夫なんだ、と感じた。

 

今日の映画の帰り、おばちゃん4人組が前に歩いていて、その内2人が手にワイルドスピード ICE BREAKの特典のクリアファイルを持っていて、なんかいいなぁと思った。実感おばさん。鞄が小さくて入らなかったみたい。帰ったらそのクリアファイルどうするんだろう。家族に感想言うのかな。おばちゃん4人でワイスピいいなぁ。

 

明日は何をしようかな。予定が無くて嬉しい。

生活のランクを落として買わなくなったものはありますか?

短大を卒業後、一般企業に正社員として入社した。その会社を3年半で辞め、その後、派遣社員契約社員という雇用形態で、いくつかの会社で雇ってもらった。現在も最長3年の契約社員だ。

 

転職する度に新たな出会いがあり、知識も増え、どの経験も無駄じゃなかったと言い切れる。退職してからも交流が続いている大切な人が何人もいる。いくつかの転職(と恋)は、私を強くした。

 

ただ、初めて勤めた会社からもらった年収を、その後超えたことは一度もない。夏と冬のボーナスが大きかった。22歳くらいまで実家にいたので、毎月少しの金額を親に渡し、残りは全て自由に使えた。ウハウハだった。

 

その会社を辞めた後、手取りが減り、スキンケア用品のランクを下げた時の寂しさは、今でもよく覚えている。


私は社会人になるまで、肌や化粧に無頓着で、常にスッピンだった。お給料をもらえるようになり、デパートの1階にある「アルビオン」という肌に合う化粧品ブランドに出会った。

 

メイク落とし・化粧水・乳液・美容液・ファンデーションをアルビオンで揃えた。カウンターで美容部員さんと会話を交わし、新商品のサンプルをもらい、綺麗な紙袋を持ってお店を後にする瞬間が心地良かった。映画「紙の月」の主人公が最初に一線を越えてしまう舞台は、確か化粧品のカウンターだった。あの場所には華やかな魅力と魔力がある。働いたお金でこれを買える。それがあの頃の自分のステイタスだったのだろう。

 

朝と晩、アルビオンで肌を整える時間は至福だった。荒木経惟さんのサイン会があると知って、いつもより高い美容液を買ったこともある。少しでも綺麗に見られたかったあの頃の自分が微笑ましい。顔は変えられないけど、肌は変えられる。肌の調子が良いと、気分も明るくなった。

 

退職後、アルビオンを使い続けるのが難しくなり、ドラッグストアで買えるものに切り替えていった。肌に最も大切なのはメイク落としだと思っていて、それだけは粘って最後まで残したが、結局今は違うものを使っている。

 

もし溢れるほどのお金を手にしたら、またアルビオンを買いたいと思うのだろうか。今だとそのお金を映画や本に使いたいと思うかもしれない。使ってもあの頃と同じ感動を味わえるかどうかもわからない。「君の部屋のソファーにも座った でも決して昔と同じじゃない」とB'zの稲葉さんが歌っていた。そして「ほんの少し離れて歩く 傷つかないように」と続く。小・中学生の頃、部屋の天井に稲葉さんのポスターを貼っていた。しかもベッドの真上。稲葉さんに見つめられながら、いや、稲葉さんを見つめながら、毎夜グースカ寝ていた。(脱線ムービーならぬ脱線ブログ。略して脱ブー。)

 

今のスキンケアの時間にワクワク感は無いが、買うときに負担を感じないし、分相応だと思っている。アイテムもどんどんシンプルなものになっていった。今の肌も、年相応で割と気に入っている。

 

アキ・カウリスマキ監督の「浮き雲」を観て、そんな事を考えた。

ミューズ・アカデミーを観た

今日は久々に11時過ぎまで寝た。4度寝くらいかな。布団はいい。人って1日の大部分を布と布の間に挟まれていて可愛いなぁと思う。「横になる」って響きがおかしくてたまらなくなる時もある。「ちょっと縦になるわ」とは誰も言わない。

 

起きて、卵&納豆ご飯を食べて、チョコシフォンケーキに初挑戦。大成功。レモンとバナナも既に成功済み。いいお菓子を覚えた。

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「パーフェクト・ホスト」をDVDで観て、母の家にチョコシフォンを届けた。美味しいと言ってもらえた。ソファーも届いて、落ち着いた生活を送れているようだ。こういう日々がずっと続けばいい。そう思える日は定期的に訪れる。

 

公開を心待ちにしていた「ミューズ・アカデミー」をシアターキノにて。「シルビアのいる街で」を観て以来、ホセ・ルイス・ゲリン監督の作品を映画館で観たいと思い続けてきて、叶った。クーリンチェは手前と奥で物語が2つ進行していた印象だったけど、本作は2つの物語がガラス越しに重なっていた。ガラス越しの表情や雑踏が美しかった。ドキュメンタリーなのかフィクションなのか判断がつかないシーンの連続。車の中であんな風に向き合って目を見つめられたら口づけせずにいられなくなる。頬を触りたくなる。

 

「あなたは小説の一章(にすぎない)」というようなセリフがあった。一章に登場するだけ素晴らしいことじゃないか。私は誰かの人生史に刻まれただろうか。私が多くのページを割くのは誰との恋愛についてだろう。

 

初恋。一瞬でも情熱を燃やした相手。ずっと登場し続ける友達。添い遂げる人。あとがきでお礼を言われるポジション。どれになりたい?
今は誰も近くにいないけど、会いたい、話したい、抱きしめたい、そんな気持ちで頭がいっぱいの時もあった。この映画では、それは愛ではなく、内在していた人格の発見、というようなことも言っていた。今は発見はいいや。そのうち、人の好きになり方を忘れた、とか言い出すパターンだよこれ。

 

 

最近のこと

先週、母の引越しが終わり、今日は今まで住んでいた部屋の引き渡しに立ち会いました。

 

今日までの数週間、きつい日が沢山ありました。母の全体重で押し潰れそうになっても、なんとか小さな楽しみを見つけ、出来るだけ習慣を崩さないように生活しました。友達と飲んでスッキリしたり、ワイルドスピードMEGA MAXの過剰さに笑って、憂鬱な気分が吹き飛んだ日もありました。

 

引越しの日、母は掃除のために外した腕時計を失くしてしまいました。2人で探しても見つからず、電池が止まって使っていなかった腕時計を直して使うということで落ち着いたのですが、昨日、母から見つかったと連絡がありました。先程会った母に「見つかって良かったねー」と言うと、母は「これ、ゆみちゃんがボーナス出た時になんか買いなーってお金くれたので買ったの」と腕時計を見せてくれました。私はお金を渡したことも、母が時計を買ったことも覚えていませんでした。母が一生懸命探していた理由がわかって、別れてから少し涙ぐみました。なんていうのかな。自分のいない場所でも自分は生きていたんだ、と感じました。「モノより思い出」ではあるけれど、「モノ」から「思い出」は作れて、モノも思い出も残るんですね。

 

母は私に頼れても、私は誰を頼りにすればいいのって思った日もありました。それでもギリギリの所で頑張れたのは、母も頑張っているのがわかっていたから。辛い時もあっただろうに、真夜中と仕事をしている時間は1人で耐えてくれた。父の命日でもある日、8年ぶりに、母は家族みんなで住んでいた実家に戻りました。

 

解放感に満ち溢れている私は読書欲も復活して、横尾忠則さんの「死なないつもり」と村田沙耶香さんの「コンビニ人間」を立て続けに読みました。両方オススメ。

 

今日は軽快なサスペンスアクション「フレンチ・ラン」を観て、一度帰宅して、明日お友達にあげる用のシフォンケーキを焼きました。シフォンケーキは成功続きであります。肝はオーブンの温度。まだプレーンしか作ってないから、次はレモンかチョコのシフォンケーキ作るんだー。楽しみ!これからご飯食べて、「ラビング 愛という名前のふたり」を観てきます。なんのお礼かわかんないけど、いつもみんなありがとねー。