覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.5

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

フォッグに魅せられて

 

まず私が惹かれたのは、フォッグの孤独な生き方だ。大学も行かなくなった後に全財産を計算して少しずつ貯金を使い叔父さんから譲り受けた本を読みつぶし売って、残高ゼロになるまで生活するという時間の使い方。どことなくニヒリズムも感じられ少しだけ憧れを覚えてしまった。

といっても、実際は貧乏と困窮の間ぐらいの生活でとても耐えられたものではないのだろうが、そのニヒリズムに酔う感じが若者らしい。栄養が満足にとれないことすら楽しんでいる様子があった。

少し前に「仕事を止めて貯金で生活し、貯金がなくなったら死ぬことを決めたブログを読んで」といった内容のブログ記事を読んだ。正にフォッグがとっていたのはそのような生活だ。それでもフォッグは、死のうと決めていたわけではないあたりが面白い。

いよいよお金がなくなりホームレス生活に突入し、生死の境で救われる様はフィクションらしい劇的な様なのだが、普段の我々だって少しずつ人を助けたり助けられたりしながら生活しているのではないだろうか。

そして、結果的にフォッグは祖父であったエフィングと寝食を共にする仕事に就き、さらにはトマスが置き去りにしてきた息子のソロモンが、フォッグの父であったことも知る。この三人は境遇も違えば、肉親がいることすらおぼろげにしかわかっていないのに、不思議と孤独を選んでいるところに、どこか似ているものを感じた。私は人の性格を決めるのは血よりも育ちだと思っているので、それが血の繋がりからくるものだとは思えないのだが、それでもやはり、家族だからなのだろうかと思わせられた。

変わり者たちと対比的なのが、フォッグを助けたキティとデイビッドであったり、エフィングの身の回りを世話するミセス・ヒュームであったりする。彼らはとても当たり前に健全で、キティとフォッグの恋愛は輝かしくも危なっかしく、これぞ若者、と思わされる。そして感じたのが、世界というのはミセス・ヒュームのような健全な人が大半だから成立していて、フォッグやエフィングのような変わり者はカレーライスにおける福神漬けぐらいの割合で存在するのが正常な社会なのだろうな、ということだ。フォッグの冒頭に憧れを覚えた私も、福神漬け側なのだろうか。

 この物語は、フォッグがこの一連の出来事から何年も経ってから回想録として書かれている。歩き続けたフォッグが旅を終えてから、どのような生活を経て『ムーン・パレス』を書くに至ったのだろうか。1948年生まれである彼がどこかで伴侶と出会い子どもが誕生し、今もアメリカのどこかで風変わりな年寄りになっているイメージが、私の頭から離れない。

覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.4

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

孤独と偶然。この印象が強い。

ポール・オースター作品を読むのははじめてではないが、かなり前に読んだため内容はほとんど覚えていない。ただ以前に読んだ作品でもこれを、孤独と偶然、の印象を強く感じたのは覚えている。ポール・オースター作品に共通するモチーフなのかもしれない。

「ムーン・パレス」の話の流れを端的に説明すると、孤独になり、偶然の出会いにより助けられ、また孤独になる、となる。孤独、出会い、孤独。孤独にはじまり、孤独に終わる。しかしこの最初の孤独と最後の孤独は大きく違う。

主人公マーコの唯一の、たった一人の血縁であるビクター伯父さんが亡くなる。このとき伯父はマーコに多くの本を残す。マーコはこの膨大な本を読み、本を売って暮らすようになる。マーコはこの膨大な本に読むことに固執し、云い方を変えれば本を読むことに逃げ、自分を追い詰めることになる。

しかし伯父さんがマーコに対して残したものはもうひとつあるように思う。それはユーモアだ。

珍説のようなジョークが得意なビクター伯父さん。マーコは伯父さん流ユーモアの通になっていく。伯父さんのジョークに対する伯母さんの反応がよくなければ、それについて胸を痛めるほど。伯父さんが悪趣味な絵葉書を送ってくれば、それを自分たちだけに通じるジョークのように感じるほど。こうしてビクター伯父さんはマーコにユーモアの感性を残したのだ。

「ムーン・パレス」は読んでいて楽しい小説である。読了後に何か大きなものが残る、というよりも読んでいる途中がとにかく楽しい。「ムーン・パレス」は青春小説であり、コメディだと思うが、このコメディの大きな部分を担っているのがマーコの持つユーモアだと感じている。そしてこのマーコの持つユーモアは彼自身を助けている。

マーコの窮地を救うことになるかわいい中国人娘のキティ。たしかに彼女との出会いは偶然である。偶然の出会いではあるが、彼女が彼を助けたのは、出会ったときの会話の内容からだと思う。マーコはこの時、とにかく追い詰められた状況であった。余裕がなかった。ただユーモアは忘れていなかった。初対面の連中に対し、「キティの双子の兄弟です」などと宣言をするマーコ。そこを頭の良いキティが見抜いたのだと思う。マーコのユーモアが彼を助けたのだ。

その後マーコはある老人の元で働くことになるが、この偏屈な老人のために働き続けることができたのも彼の持つユーモアのおかげである気がする。

さらにマーコの人生は不思議でやや荒唐無稽に展開する。また何人かの人生が語られるが、微妙にそれぞれが重なるような部分もある。この人生の反芻のような部分もこの作品の魅力かと思う。

マーコは物語の終盤で、再び全てを失う。失い続け、孤独となる。だが伯父さんが亡くなったときの孤独とは明らかに違う。

キティと、老人エフィングと、エフィングの息子であるバーバーと出会ったあとの彼であれば、孤独になっても強く生きていけるだろう。軽く笑えるユーモアと。うまくやり抜く賢さと。大げさに云うのならばきっとそういう事なんだろうね。

 

 

覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.3

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

題名:オースターと東洋哲学

 

本作は主人公であるマーコ・フォッグとその一家のクロニクルである。

そのあらすじは冒頭2ページに記されている。

コロンビア大学アイビーリーグに属する名門校。100人以上のノーベル賞授賞者を誇る)に在学していた主人公が、養父である叔父の死に伴い、人生に絶望し路頭に迷う。その過程でキティという女性と出会い、路頭に迷い死にかけていたところを助けられ恋に落ちる。車椅子の老人(エフィング)の世話をするという仕事を始め、エフィングの死後、カリフォルニアまでの砂漠を歩く。主人公は子供の頃から私生児だと母親に教えられていたが、エフィングの死後、父親が誰であるのかを偶然にも知ることになる。

つまり、一人の青年が大学を卒業する20代から、自分の出自を含めたアイデンティティを獲得し大人になるまでを描いた青春小説であるとも言える。

 

本作は一人称視点で語られ、主人公がコロンビア大学出身であることや、遺産として膨大な数の本を手に入れることなど、オースター本人のエピソードと重なる部分も多く、海外作品としては珍しい私小説風である(私小説とは日本文学特有のジャンルであると言われている)。

また、話の最初にその概要の独白があり、その後その詳細を語るというスタイルも独特である。一般的には、「興味の持続」という観点からもミステリー的要素はいいタイミングで提示しそうなものだが、本作では最初に物語の概要を述べる。つまり作者にとって、読者に謎とか驚きを与えることが主眼なのではないことを意味している。例えば、主人公の父親が、車椅子の老人(エフィング)の息子であることが分かる(つまり偶然にも、仕事として介護していた車椅子の老人が実は祖父!)というドラマチックなシーンがあるのだが、読者はその事実を早い段階で知らされる。そのため読者はミステリー的観点ではなく、情緒的な視点でその事実を感じ取り、考えることができる。

 

オースターの作品を読むのは初めてだったが、他の翻訳小説と比べて非常に読みやすく、登場人物の考えに共感する部分が多かった。何故なのだろうかと考えていたのだが、もちろん理由の一つとして翻訳者の力も大きいのだが、この作品から、東洋的、仏教的観念を強く感じたことも理由として挙げられる。つまり親和性が高かったのだ。

本感想文を書くにあたってオースターのことを調べたが、彼と仏教や東洋文化との繋がりを見つけることはできなかったので、以下はおそらくは私の妄想である。

どのような点に東洋的要素を感じたのか。

それは、縁起(全ての現象は単なる偶然ではなく、色々な物が絡み合い縁として生じるという考え方)や因果といった東洋・仏教哲学に、影響を受けているかのような事件が多々起こる点である。

例えば、主人公はセントラルパークを彷徨うようになるが、その過程で主人公が考えるそれらはあたかも仏陀が解脱する前のようである。またその放浪期間に主人公は「いいことが起きるのは、いいことが起きるのを願うのをやめた場合に限られる」という非常に東洋的思考にたどり着く。主人公が彷徨っている間に、見知らぬ人から施しを受けることにより何度も危機的な状況から助かったと言う場面があるが、後に主人公とエフィングとが、貧しい人にお金を施すシーンとの因縁を感じ、それらの行動が時空を超えてギリギリの状態の主人公を助けたのではないかと想像してしまう。さらに主人公の祖父であるエフィングが、その昔、砂漠で彷徨い生きるというシーンは主人公がセントラルパークで彷徨った事件とのアナロジーを感じさせ、親族間での因果、因縁を想起させる。一番大きな点としてはやはり、偶然世話をすることになった車椅子の老人が実は祖父であるという、一見すると偶然この上ない事件も、フォーチュンクッキーの「月は未来」という言葉が、エフィングの憧れの人であるテスラの書物からの引用である点など、偶然を必然であるかのように見せる工夫により、縁起、言い換えるなら運命論的であるかのような印象を与える場面であろう。もちろん、登場人物や、時代や街の空気感の丁寧な描写が、この作品を魅力的なものにしているのは間違い無いのだが、オースターの運命論的、縁起的な観点が私にとって親しみやすいものにし、さらにはこの作品を特徴づけているのではないかと思う。

蛇足だが、エフィングは幼い頃に、エジソンニコラ・テスラという実在の人物に遭遇する。エジソンはGE(セネラル・エレクトリック)を設立し、テスラはウエスティングハウスと関係が深く、それら両会社はその後世界を代表する重電メーカーとなる。私の高校時代の親友が東芝に入社し、M&A部門に配属され、その東芝はウエスティングハウスを買収し倒産の危機に瀕することや、私が興味を持ってその動向を追っているイーロンマスクが電気自動車のテスラ・モーターズ社(社名の由来はニコラ・テスラ)を設立することなど、これらは現在の日本や私の実生活とも地続きであり、図らずも繋がり・因縁を感じた。

今後、オースターの他の作品を読み、映画「Smoke」を観て、彼の作家性をもっと深く知りたいと思った。

 

覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.2

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

「考えてみれば、図書館というのは現実世界の一部じゃありませんからね。浮世離れした、純粋志向の聖域です。あそこなら一生、月にいるまま生きていけますよ」

心に残る象徴的な表現が多いこの作品の中で、特に印象に残った台詞のひとつ。

表題の『ムーン・パレス』はニューヨークのチャイナタウンにある中華料理店の名前なのだけれども、この作品には随所に月に関する比喩や象徴表現がちりばめられている。

主人公のフォッグは父親を知らず、幼くして母を事故で亡くし、伯父に育てられるが、最愛の伯父も、フォッグが大学を卒業する約半年前に亡くなってしまう。

この作品を大きく三部に区切ると、一部は、彼の生い立ちと伯父さんとの思い出、そして伯父さんを失ってから、フォッグが絶望し、金も家も失い、セントラル・パークで倒れるまで。

二部は、セントラル・パークで倒れていたところを、友達のジンマーと、のちに彼女になるキティに救出され、主にキティの存在によって立ち直り、金持ちで偏屈な車椅子の老人、エフィングの元で住み込みのアルバイトをするようになるまで。

三部は、エフィングとの生活と、エフィングの過去、そしていくつかの別れ、明らかになる自分の人生の数奇な巡りあわせ、そしてラストシーンとなる。

ラストシーンにも月の描写があり、読み終わったときは、結末がやや唐突に感じられて、なぜ、物語がその先を描かず、そのシーンで終わったのか、今いち腑に落ちなかった。

けれど、タイトルの『ムーン・パレス』と、冒頭にあげた台詞やラストシーンの月の描写について考えるうちに、これは、主人公のフォッグが、過去と決別し、自分の足で「地に足をつけるまで」の物語なのかもしれないと思った。

冒頭の台詞にあるように、フォッグは聡明でありながら、哲学者気質でどこか浮世離れしており、一部では、伯父を亡くした悲しみや金銭的な困窮を誰にも打ち明けられず、自ら選んで孤独になっていく。彼は月のように孤独で、彼の心はこの世にはなく、月にあったように思う。

多くの出会いと別れを経験し、人と関わることの喜びも悲しも乗り越え、彼は自分を信頼し、自分の足で立って歩き、地球に戻ってきたのだろう。

「自分でないものを仰いではじめて、我々は自分を見出すんだ。空に触れなければ、大地に足を据えることもできない」

これはエフィング氏の台詞。心ここにあらずで『ムーン・パレス』の看板を眺めていた一部と異なり、ラストシーンでフォッグが見上げた月は、確かに彼が地球にいるという証なのだと思う。

「自分でないもの」という台詞の中には、空や月といったものだけではなく、「他社との関係性」も含まれるのだろう。

心を開ける存在が伯父さんだけだったフォッグにとって、伯父さんを失うことは、世界を失うことと同じで、簡単に言えば、フォッグは伯父さんに精神的に強く依存していたのだろう。

けれど、ジンマーやキティやエフィング氏との出会いや別れによって、彼は相対的に「自分が何者であるか」を関係性の中で見出していったのだと思う。

「あまりにも大きな絶望、あまりに圧倒的で、すべてが崩れ落ちてしまうほどの絶望、そういうものを前にしたとき、人はそれによって解放されるしかないんだよ。それしか選択はないんだ」

「そうやって突然、疑念のかけらもなしに、自分の人生が自分のものだと悟ったんだ。それは自分に属しているのであって、ほかの誰のものでもないのだと」

出会いや関係性によって、自分の価値や役割を相対的に理解していくことはできるけれども、それを失った後の方が、より一層、自分と向き合い、「自分とは何者なのか」ということを、改めて深く見つめ直すことができるのかもしれない。

伯父さん、最愛の彼女、心が通じ合えたエフイング氏。彼らを失っても、フォッグは死ななかった。そこにうっすらと、「自分」というものが見えてくるのだろう。

フォッグが抱えていた孤独や、経験した出会いや別れは、人が自立する過程で、多かれ少なかれ経験する種類のもので、だからこそ、共感して読み進めることができた。

彼の場合はドラマティックで、後半は特に怒涛の別れの連続だったけれども、だからこそ、それを乗り越えて、西海岸までたどり着いた彼に、祝福を贈りたい気持ちになった。

覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.1

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

読書感想文2017年秋

課題作品「ムーンパレス」

 

物としての本を読んでいると、あとどのくらいで話が終わるのかが物理的情報としてわかります。左手から読了の予感を感じ始めると、面白い本ほど作品に残された時間が減っていくのが惜しくなって読むスピードを少しだけ緩めてしまったりします。

読み手の能動性に左右される読書という行為の在り方は決して時間的な物ではないですが、右側に過去が積み重なり左側に未来の広がる本という形態を読み進めることは主観的にはとても時間的な体験に感じます。

 

ムーンパレスは物語全体を時間が貫いていて、次のページにはあらゆる可能性が広がっていると同時に読んだ瞬間から文章が記憶になってしまうような感覚がありました。この本のページをめくらせる推進力は、読ませる文章や先の気になる物語の力によるところはもちろん「未だ知らない」という事の歓びそのもののようです。

物語は全てを通過した後の主人公の一つ俯瞰した視点で語られていて、そこには彼が物語の途中で鍛えられた世界への観察眼が存分に発揮されています。それを読むことは世界を改めて発見した彼の感覚を追体験するようですし、その根本には"未知"が"既知"に更新される楽しさを強く感じます。

逆に最後まで読むと読み終わった事自体にノスタルジーに近い切なさがあります。この物語は主人公が一人だったところから始まり独りになったところで終わるのですが、それは必ずしも円環ではなく不可逆な物事の余韻を残します。彼にとってその後も人生は続いたはずですが、彼にとって語るべき物語はあそこで終わってしまったのです。

 

ただそういうセンチメンタリズムは読み終わった時にそれぞれが感じれば良い事で、読んでいる最中は作者自身「私がいままで書いた唯一のコメディ(訳者あとがきより)」と規定する作品の文の流れに身を任せてページをめくれば良いでしょう。この本の主人公の再解釈を突き詰めた文体にはドライなユーモアがあります。

例えば終盤に主人公がある「大きな人物」と初めて直接会う場面。そこで彼は簡単に言えば「思ったより大きかった」という事を「思ったより大きかった」という言葉を使わずに描写するのですが、本来1行で済むところを一生懸命描きこもうとした結果「三次元という概念が並の人間よりはるかにはっきり具現化されている感じ」とか「何重にも筋の入った堂々たる首から巨大な禿げ頭をつき出している姿は、ほとんど伝説上の存在のように見えた」とか「それはただの失礼な嫌味じゃないか」という文章が延々19行も続くことになります。

特に主人公は「想像以上」や「予想外」を表す時にその語彙や慧眼に必要以上の冴えを見せるのですが、そこでの表現の絶妙な婉曲が逆に失礼でおかしかったり、時に未知を発見する歓びに溢れていたり、当たり前を改めて表現する事の目からウロコが出るような楽しさと物語が新しい事実を獲得する面白さが常に密接で、だからこそ起きる物事以上に先を読みたくなる面白さがあります。

 

短い本ではありません。随所に劇的な筋書きもありますが、それなりに話は迂回したり脇道に逸れたりします。

でも違う国の、違う時代の、全く違う人生の人間、その人の見たもの、感じた事、起こった出来事と繋がって自分の世界を広げることは物語に触れる根源的な歓びの一部です。

物語というのはいつだって「History」ではなく「His story」が担ってきたからです。

覆面読書会についてお知らせ

こんばんは。いよいよ「覆面読書会2017秋」が開幕します。

今回は私の独断で、ネタバレ可としています。「ムーン・パレス」を今後読む方にとっては、事前に知らない方がいいと思われる情報も含まれています。なので、感想文を読んで当てて欲しい、という気持ちよりも、前もって本を読んだ方が感想文を楽しめますよ、という思いが強いというのが本心です。全ては皆さんにお任せします。

 

きっとこの企画は、投稿する人達が最も楽しめる遊びです。ただ、この遊びをネット上で公開するとなると、責任は生じてきます。ただ純粋に「ムーン・パレス」で検索した方の目にも触れる可能性がありますので、全ての感想文の前に、「感想文によっては一部ネタバレを含みます。」という文言をつけます。この件に関してはどうするのが良いか迷いましたので、ロンペさんに相談させてもらいました。今回の経験を元に、これからどんどん柔軟に変化していけたらいいなと思っています。改めまして、企画に賛同してくれた皆さん、感想文を楽しみにしてくれている皆さん、どうもありがとうございます。

 

では、いきますよ!よーいスタート!

明日からスタート!覆面読書会2017秋

Twitterで私と繋がっている方はチラッと目にしたかもしれませんが、先日、「課題図書を決めて、みんなで感想文を書き、それを公開して誰がどの文を書いたか当てる読書会」を企画しました。急な思い付きにも関わらず、7名の方が参加してくれることになりました。

 

第一回目の課題作は、ポール・オースター著「ムーン・パレス」です。ポール・オースターといえば、私が大好きな映画「スモーク」の原作者でもあります。私は洋書に馴染みが無かったので、本作に決まった時は良い機会だなぁと思いました。自力じゃ手を伸ばせなかった作品に触れるってすごく大きな一歩。読んで、感じて、書いて、他の感想に触れて、推理を働かせて当てる。なにこれ、めちゃ楽しいやつじゃん!自分で企画しておいてあれですが、もうすでに楽しいです。

 

今回の投稿者は、

けんすさん(@acidman22)

あべちゃん(@eiga_nen)

ロンペさん(@ronpekun)

みかんくん(@mikan_p)

アミさん(@AmiTokiwa)

DDDさん(@writelefthand)

マツさん(@yoppii2010)

ゆみ(@cocchisunday)の8名。

 

明日10月2日(月)から、この場「ゆみ史」にて、1日2本の感想文を公開致します。木曜日に8本の公開が完了しますので、投稿した方も、していない方も、誰がどの文を書いたか、「ハッシュタグ覆面読書会」を添えて、Twitter上で呟いていただけたら嬉しいです。8人分全て当てた方がいたら北海道銘菓でも贈呈したいところですが、人数が多いような気がしないでもないので、「やったぁ!当てたぜ!」という喜びが賞品ということで納得していただけたらと思います。でも少人数だったらまじでなんかあげたい。全員分じゃなくても、「No.3は間違いなくゆみさんだろ」みたいな意見ももらえたら、とても嬉しいです。そうならないように、大人っぽい文章を心掛けました(あと数日でバレる嘘)。回答は10月9日(月)の夜に発表します。

 

では皆さん、明日から開幕です。どうぞ宜しくお願い致します。