私信のようなもの

父の葬儀の次の次の日には、会社にいつも通り出勤しました。最も近い肉親が亡くなって一週間も経っていない状況でしたが、ありふれた日常に身を置く事を選びました。お通夜に来てくれた方々へお礼を言い、お悔やみの言葉を受け取り、私を見る周りの目に何かしらの感情が含まれている事を認識しながら、仕事をしました。一か月前に父の手作りのお菓子を職場の女性陣は食べていたという経緯もあり、このあまりに急な出来事に、戸惑っているのは自分だけじゃないんだと感じていました。荒っぽくて口が悪い男の先輩が、1行だけの慰めのメールをくれました。その人の背中を見つめ、お礼のメールを返しました。お通夜の日に自身の結婚式があった同僚が、お通夜に参列出来なかった事を詫びに来ました。かえって気まずい思いをさせて申し訳ないと思いました。

 

こういった対応をしながら、私は自分の目が潤んでくる事に気が付きました。職場で泣くなんて言語道断。ありえない。なんとか堪えました。そんな私の様子を感じ取った女性の先輩が、私の手からマウスを取り上げ、立ち上がったファイルを消し、パソコンをシャットダウンし、彼女に促されるまま、私は早退しました。私は、「やさしさ」について考える時、いつもこの女性の事を思い出すのです。きっと、無理しないで帰りなっていう言葉だけだと、大丈夫です、と答えて終わっていたはず。一歩踏み込んだ行動でしか伝わらない事もあると教わった出来事でした。ほんの一瞬の出来事が、生きる上での指針になったり、暗い影になったりするから、油断ならないなぁと思います。

 

しのちゃん、カラシニコフ不倫海峡読んで、書きたくなったのはこれだった。恋愛の話じゃなくて肩透かしかな。コロ助って出てきてしのちゃん思い出したよ。いや、読みながらずっとしのちゃんが脳の後ろあたりにいた。私に読んで欲しいと思ってくれてありがとう。私は好きになっちゃいけない人なんていないと思ってる。墓場まで持っていける話が多い人生は、誰かを大切に守ってる人生でもあると思うのです。