覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.2

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

「考えてみれば、図書館というのは現実世界の一部じゃありませんからね。浮世離れした、純粋志向の聖域です。あそこなら一生、月にいるまま生きていけますよ」

心に残る象徴的な表現が多いこの作品の中で、特に印象に残った台詞のひとつ。

表題の『ムーン・パレス』はニューヨークのチャイナタウンにある中華料理店の名前なのだけれども、この作品には随所に月に関する比喩や象徴表現がちりばめられている。

主人公のフォッグは父親を知らず、幼くして母を事故で亡くし、伯父に育てられるが、最愛の伯父も、フォッグが大学を卒業する約半年前に亡くなってしまう。

この作品を大きく三部に区切ると、一部は、彼の生い立ちと伯父さんとの思い出、そして伯父さんを失ってから、フォッグが絶望し、金も家も失い、セントラル・パークで倒れるまで。

二部は、セントラル・パークで倒れていたところを、友達のジンマーと、のちに彼女になるキティに救出され、主にキティの存在によって立ち直り、金持ちで偏屈な車椅子の老人、エフィングの元で住み込みのアルバイトをするようになるまで。

三部は、エフィングとの生活と、エフィングの過去、そしていくつかの別れ、明らかになる自分の人生の数奇な巡りあわせ、そしてラストシーンとなる。

ラストシーンにも月の描写があり、読み終わったときは、結末がやや唐突に感じられて、なぜ、物語がその先を描かず、そのシーンで終わったのか、今いち腑に落ちなかった。

けれど、タイトルの『ムーン・パレス』と、冒頭にあげた台詞やラストシーンの月の描写について考えるうちに、これは、主人公のフォッグが、過去と決別し、自分の足で「地に足をつけるまで」の物語なのかもしれないと思った。

冒頭の台詞にあるように、フォッグは聡明でありながら、哲学者気質でどこか浮世離れしており、一部では、伯父を亡くした悲しみや金銭的な困窮を誰にも打ち明けられず、自ら選んで孤独になっていく。彼は月のように孤独で、彼の心はこの世にはなく、月にあったように思う。

多くの出会いと別れを経験し、人と関わることの喜びも悲しも乗り越え、彼は自分を信頼し、自分の足で立って歩き、地球に戻ってきたのだろう。

「自分でないものを仰いではじめて、我々は自分を見出すんだ。空に触れなければ、大地に足を据えることもできない」

これはエフィング氏の台詞。心ここにあらずで『ムーン・パレス』の看板を眺めていた一部と異なり、ラストシーンでフォッグが見上げた月は、確かに彼が地球にいるという証なのだと思う。

「自分でないもの」という台詞の中には、空や月といったものだけではなく、「他社との関係性」も含まれるのだろう。

心を開ける存在が伯父さんだけだったフォッグにとって、伯父さんを失うことは、世界を失うことと同じで、簡単に言えば、フォッグは伯父さんに精神的に強く依存していたのだろう。

けれど、ジンマーやキティやエフィング氏との出会いや別れによって、彼は相対的に「自分が何者であるか」を関係性の中で見出していったのだと思う。

「あまりにも大きな絶望、あまりに圧倒的で、すべてが崩れ落ちてしまうほどの絶望、そういうものを前にしたとき、人はそれによって解放されるしかないんだよ。それしか選択はないんだ」

「そうやって突然、疑念のかけらもなしに、自分の人生が自分のものだと悟ったんだ。それは自分に属しているのであって、ほかの誰のものでもないのだと」

出会いや関係性によって、自分の価値や役割を相対的に理解していくことはできるけれども、それを失った後の方が、より一層、自分と向き合い、「自分とは何者なのか」ということを、改めて深く見つめ直すことができるのかもしれない。

伯父さん、最愛の彼女、心が通じ合えたエフイング氏。彼らを失っても、フォッグは死ななかった。そこにうっすらと、「自分」というものが見えてくるのだろう。

フォッグが抱えていた孤独や、経験した出会いや別れは、人が自立する過程で、多かれ少なかれ経験する種類のもので、だからこそ、共感して読み進めることができた。

彼の場合はドラマティックで、後半は特に怒涛の別れの連続だったけれども、だからこそ、それを乗り越えて、西海岸までたどり着いた彼に、祝福を贈りたい気持ちになった。