覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.7

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

筆者がこのムーンパレスという人物喜劇、もしくは悲劇の感想を書こうとしても何から書き始めればいいのか悩む。こういうときは思いついたところから書き始めることにする。

 

これは感想文を書くという目的なので、この物語と自分の人生(自分の経験と言い換えた方がいいかもしれないけど)、物語と自分との接点を見つけていく作業だ。当然だが筆者は、母親が交通事故にもあっていないし、大学時代に数千冊の本も読んでいないし、聡明な哲学的思考も持ち合わせていない。しかし、時代も土地も違うムーンパレスという500ページ強の物語に自分自身を近づけていきたい。

言い換えると批評する気は更々ないということだ。「ムーンパレス」が大胆な3部構成になっているとか、奇跡が起こりすぎる物語だとか、バーバーがティーンエイジャーのときに書いた小説がこの小説の概観を捉え、かつ大きな奇跡について言及している件とその物語的な効果とか、批評的に論じることは避けたいと考えている。筆者の感想文を読んでもムーンパレスが読みたくなることも、逆に意欲が失せることもないだろう。感想文を書くことによって筆者が自ら認識していない自分自身の輪郭線が見えてきたら、ムーンパレスという作品を味わい、身体の一部として消化吸収できる最高の結果ではないだろうか。

 

少しでも読めば分かることだが、この小説は一人称視点で書かれている。さらに言うと心理描写、とくに本人の語っている部分が大半を占める。会話が少なく、主人公が内部へ内部へと思考を続けていくのはムーンパレスの大きな特徴の1つかもしれない(~かもしれないというのは、筆者が同時代の海外文学に疎いので比較対象がないためである)。主人公の思考の道筋が明らかなのは読書における幸福な点の1つだ。普段の生活で他人の思考が手に取るように分かることはほぼ不可能であるし、例えば映画を観ていても主人公が何を考えるのかを全て言語化してくれることはない。逆にそんな映画があったとしたら、「心の声が全部聞こえるなんて演出、演技が下手!」なんて評判がネットに出回るだろう。得てして俳優が難しい顔して立っていればいいのかというと、それがいいとは筆者は思わないが、観客は「文章化されている分かりやすい」演出を求めていないはずだ。「太陽」(2016年 監督:入江悠)を観たときも、主人公の神木隆之介が絶叫するシーンは評価が割れていた。「分かりやすく絶叫するのはリアルではない」そうである。その点、今作の「ムーンパレス」の主人公であるフォッグは常に心の声を発し続けている。嘘をついているという可能性もあるが、しいて嘘をつく必要もない。彼の思考は全てが分かる。神木隆之介が常に絶叫しているかの如く、フォッグは自分の心をそのまま読者に提示している。

 

読み進めていくと、徐々にフォッグの思考回路を自分の思考回路に同期していくような感覚になる。フォッグの目を通して自分が世界を見ているような、フォッグの肌を通して風を感じているような、マルコヴィッチの穴に入るがごとく、薄皮一枚隔てた没入感に囚われていく。例えば、卵を落とすシーンでさえ、筆者は気持ちが暗くなった。また、電車で丸い石を想像するシーンではフォッグと同様に石の形を想像した(しかし失敗した)。

 

他人の思考を自分と同期していくというのは小説で最も豊かな瞬間であり、「ムーンパレス」は極めて没入度が大きく、幸福な作品の1つだと感じた。

 

全体が彼の自叙伝的であると言っても間違いはない。フォッグは物語の始めから、人生のある地点から振り返って文章を書いている。そのため、物語は何度か時間が飛ぶ。キティという名前は冒頭に登場しており、元友人宅で彼女と会う前に運命的な出会いだと意識させられる。

遠い未来の街角で友人とすれ違うと言及もされる。この物語を読んでいると、読者がフォッグ化されていくのと同時に、フォッグがどの地点から自叙伝を書いているのか強く意識させられる。どんな状況で書いているのだろうと想像させられる。

 

自叙伝というと、中盤、エフィングも自叙伝を執筆しようとする。エフィングの命は風前の灯であり、それは本人も認識している。老人が過去を振り返るように、フォッグも死を目前に振り返っていたのではないか、この物語はフォッグの死によって締めくくられるのではないか、と不安が頭によぎる。月は死のメタファーだ。

 

中盤から終盤にかけては、エフィングの死を皮切りに死の匂いが一層濃くなる。キティの中絶、別れ、実父の死、絶望や孤独を乗り越え多額の富や幸福を得たフォッグをまたしても追い詰めていく。バーバーの書いた物語もより一層、フォッグの死に向けての重苦しい雰囲気を倍増させる。このまま孤独になり死んでいく、もしくは死に近しい状態になるのだと想像し、読み進めるのが憂鬱になる。

 

重苦しい中を必死に読み進めるとフォッグが全てを失い物語が締めくくられる。失ったものは大きいが心は爽やかだ。彼がゼロ地点に立ち、どんな一歩目を歩き出したのか、予言ともいえるバーバーの書いた物語からどのように解放されていったのか、それはこの「ムーンパレス」には書かれていない。だが1ページを読み返すと彼の人生はここから始まったと言及している。踏み出したその先には新しい人生があったに違いない。

 

筆者は彼らとの出会いに勇気づけられた。筆者の現状について言及するのは避けるが、自分自身の皮一枚内側から、2017年の日本の秋の風を感じ、今までの人生の続き、もしくは新しい人生の始まりを生きていくのだ。考えることを辞めず、絶望し、幸福になり、時には孤独になったとしても、月に向けて一歩ずつ歩んでいける、そんな気がした。