スクリーンタイムについて

Twitterのおすすめ欄をいつしか見るようになった。

 

目の保養の為にワンコアカウントとかをいくつかフォローしたからか、おすすめ欄に色んなワンコニャンコが流れてきて、可愛い可愛い思いながら見てた。でも、それに挟まって流れてくる攻撃的な言葉、罵り合いや嘲笑、衝撃映像とうたったもの、大げさなコスメのPRやなんかにしょっちゅう嫌な気持ちを抱いた。

 

それでも、笑っちゃうものもあったり、こんな面白しょうもないこと読めるのTwitterだけだわ、と思うこともあった。急に湧き起こるムーブメントのようなものも楽しかった。ホテルに戻ったらぬいぐるみがこうなってたシリーズとか、動物と戯れる作家シリーズとか、ほわーっ、かわええのぉ、とか思いながら眺めてた。

 

おすすめ欄は、なんとなく疲れていて、他に何もする気が起きない時こそ最適だった。でも読むとやっぱり嫌な気持ちになることが多かった。この時間いる?でも誘惑される!の反復運動。

 

そして私は初めてスクリーンタイムを設定してみた。1日20分。初めて設定したのは夕方。設定してすぐTwitterアプリを開こうとしたら、既に制限時間を超えていて開かなくて薄く笑った。無視して開けるボタンはあるが我慢した。次開けるのは0時を超えてから。せっかくだから読書しようと、買ってあった文庫、平野啓一郎さんの『本心』を超いいペースで読んだ。捗る捗る。本を閉じ、トイレ行って戻った時なんかに、習慣でアプリを開こうとして、あぁ開けないんだった!を4回くらいやった。0時になるのをワクワクして待った。0時過ぎに開いた時に、おす!ただいま!どうもどうも!みんなどうしてた?!という思いで、フォローしてる人達の呟きを目を爛々とさせて読んだ。

 

スクリーンタイムがあるから、おすすめ欄を読む時間はないぜ!と自然に思えた。そして思ったのは、そうだ私は「フォローしてる人達の」身体からポロッと出たような呟きを読んだり写真を見るのが好きだからTwitterが大好きなんだ、ということだった。おすすめ欄に出てくる、誰だかわからん人の投稿読むのが好きなわけじゃないわ私。初心に戻った。

 

ということで今はスクリーンタイムを15分に縮めて、フォローしてる人の呟きのみを読むようにした。1分だと15回、1分半だと10回開ける。開かなくなったら0時になるのをワクワクして待つ。

 

そういう生活を初めてどのくらいになると思う?まだ3日目です。

 

おやすみ。

金曜の夜

無料送迎バスに乗ったのは私1人だった。

運ぶ人数と経費とを天秤にかけて、この送迎サービスを辞めようって話題出てたらやだな、とても助かってるから続けておくれ。そんな事を考えながら流れる景色を見ていたが、そもそも数年ぶりに行くくせに、そんな風に願うのはおこがましいよな、とも思った。外はまだ少し陽が残っていた。雪道でガタガタと揺れる。ちょうどタイヤがボコっとしてるとこに座っちゃった。

 

パートナーが不在の今夜、スーパー銭湯を満喫しようと思い立ったのは在宅での仕事中。17時きっかりに仕事を終え、母と短い時間電話で話し、無料送迎バスに揺られて到着した。

 

身体を流して軽くお湯に浸かり、湯着を着て岩盤浴でじっとりとした汗をかき、漫画がある休憩所で1冊読み、岩盤浴に入り、漫画を1冊読み、お風呂で温まった。

 

お食事処でとんかつ定食を頼んだ。メニューにオロポがあって、あぁ話題になった時に飲んでみたいと思ったんだよな、と思ったが頼まなかった。ご飯前に炭酸飲んでお腹膨らますのもな、まぁオロCとポカリ買って家でも出来るか、でもここ特有の配合はここでしか味わないよな、いいの?頼まなくて。そんな脳内会議を終わらせるべく、吉本ばななさんの短編集『ミトンとふびん』の『カロンテ』を読み始めた。

 

その一つ前の表題作『ミトンとふびん』は昨夜眠りにつく前に布団の中で読んだ。少し涙が出て、目の周りの保湿ケアが消え失せたので、クリームを塗り直して寝た。

 

この人の小説はこの人の小説を読んだ時にしかならない感情を産む人だから、いつかノーベル文学賞を取るのかななんて考えてる。どんな人が歴代ノーベル文学賞を取ってるのか全く知らないんだけど、いわゆる文学の最高峰ならきっと。

 

カロンテ』を半分読み、とんかつ定食が到着。お味噌汁の蓋が取れやすいようにほんの少しだけ傾けられていた。全てを美味しくいただいた。続きを読み終え、バスの出発までに次のお話も読み終えられそうだったけど、読み進めずに、この文章を書き始めた。

 

帰りのバスには私の他に3人乗っていた。みんなお風呂上がりなんだね。志村けんが食べてたようなスイカの形をした月を、少しも寒くない私が見ている。

お手紙

しちゃんへ

 

まずは私の事を書くね。

今のパートナーとは、ほんとにイライラもモヤモヤもヤキモキもせずに、穏やかでいられるんだよね。若い頃の私はもっと不安定だったと思うし、相手の一挙手一投足を気にしてた。今の人と長く良い関係でいられてるのは、出会った時から、圧倒的な人としての信頼感があるのが大きい気がする。

 

あと、ちゃんと家に自分だけのスペースがあるのが大きいかも。それぞれ自分の部屋でゲームしたり本読んだりもできて。寝室が別だと、眠りにつくまで好きな過ごし方できるって私の中ではかなり大きくてね。睡眠関連は大事。1人の時間大事。

 

しちゃん苦しそうなの知ると、一緒にいない時でも優しさに包まれてるような気持ちになれるパートナーに出会えたらいいな、って感じる時ある。

 

うちは昔、なんで結婚しないのって言われたり、そういう状況を分析されたくないがために、「結婚した人」「子供を産んだ人」になりたくて必死だったことあった。今思うと周りを気にしすぎ且つエゴの塊なんだけど、あの頃はそうしないと抜け出せないと思ってたし、それを叶えてくれる人を探してた。そういう願望に巻き込んでしまった人に対しては、今でも申し訳ない気持ちがあるよ。あと親を安心させたいって気持ちもあったかな。わかりやすい形が欲しかった。自分が、年齢重ねて円くなったり、結婚や子供を望まない今だからこういう気持ちでいられるのかなとも思ってるから、しちゃんに、こうしたら?とか明確なアドバイスは何も言えなくてね。

 

ごめんね、ここからは勝手な憶測なんだけど。私が知ってる微々たるものの中で思うことは、今回の彼はアプリ消さないでいたことでしちゃんに疑念の芽を植え付けたことがまず良くなかったんじゃないかって勝手ながら感じてて。なんとなく信頼できてないゆえ、発生しちゃう感情があるんじゃないかな。こんな自分、こんなこと言っちゃう自分、めっちゃ嫌いだわって思うのってほんと疲れるもんよね。なんでこんな風になっちゃうんだろうって泣きたくなる事もあったな。

 

しちゃんが、この人といる時、1人でいる時と同じくらい楽だわって思える人に出会えたらと願うし、1人で吸う風もまた美味し、とも思えたらいいねって、陰ながら思ってます。取って付けたかのように言うけど笑、今の人との時間が健やかなものに変わっていくのなら、それも良き事とも思う。誰にでも良い部分と難ありな部分あるから、それを無理なく受け止め合える2人でいられたらいいね。

 

しちゃんのことが大好きなゆみより

母とお出かけ

昨日、久しぶりに母と札幌駅で待ち合わせをした。

 

私たちがよく行っていた、地下街にある小さな本屋さんが少し前に閉店した事で、違う本屋さんへの最短ルートを母に教える事が主目的だった。会うたびに母は小さくなっていっているような気がする。私が大きくなっているからかもしれない。

 

「ここからエレベーター乗ったらすぐだよ」と教えながら、大きい本屋さんへ到着した。エレベーターを降りたらすぐに女の子の写真集売り場があり、そこで母は「可愛い子はこうやって写真集出せるんだねぇ」と言っていた。検索機の使い方を教えたけど、自信がなさそうだったから、「ここ店員さんも多いから、探せなかったらすぐ聞いた方がいいよ」と伝えた。

 

雑誌売り場で、母が、ある男性俳優の名前が思い出せずいてあれこれ言ってるから、「え、何、その俳優さんが好きなの?」と聞くと、「ううん、好きじゃないの。ゆみちゃんがどう思うか聞いてみたくて」と言っていた。好きじゃないんかい。母がいつかその俳優さんをテレビで見たら、名前わかって嬉しい!!(やっぱり好きじゃないけど!!!)という謎の感情を抱くのか。

 

本屋さんを一周してお昼ご飯を食べようとなり、大丸のレストラン街を一回りすると母は値段にびびって違う所がいいと言い、PASEOの地下街にあるお蕎麦屋さんに行った。確かに天ざるで千円くらい値段が違う。もう働いてるからどこでもいいよ、と言わなかった自分が少し情けない。

 

2人で天ざるを頼み、母は「落ち着くわぁ」と言い、鞄から手のひらサイズの缶を出した。その中には、保冷剤とチョコが2つ入っていた。そのチョコは、今年のバレンタインに、私が母にあげたものだった。そのチョコは私が小さい頃に母と時々食べていて、2人とも大好きだったのに何故かどこの売り場でも見当たらなくなった外国製のもの。今年の冬、ネットで取り寄せできると知り、張り切ってパートナと自分の分・母の分・そのチョコの美味しさを分かち合った幼馴染の分を購入してお裾分けしたのだ。30年ぶりくらいに再会したそのチョコを、母は大いに喜んでくれ、味が変わってないことにも感動していた。確か15個くらいしか入ってないのに、母はまだそれを残していて、私に食べさせたかったようだ。

 

私はそんな母を可愛らしいなと思いながらも、すぐにお蕎麦来るし、家に帰ってから食べるね、と鞄にしまった。母は残りの1個をパクっと口に入れた。一緒に食べて、やっぱり美味しいねって言い合った方がよかったかな、と今になって思うが、月曜に電話をした時にその美味しさとお礼伝えればいいか、と思い直した。気温の高さでフニャフニャになってしまった事は伏せようかな。

 

お互いのオススメの本を交換したり、友達の子供の写真を見せたり、愛犬の写真を見て、ほんと可愛いね、と話したりしながらお蕎麦を食べた。

 

母の好きじゃない俳優って誰だろうな。

母と星

先日の話。

ソロキャンプから帰ってきた日の夕方に、母に電話した。前日の夕方に「実は今、初めて1人でキャンプに来てるんだ」と電話で伝えていた。

 

どんな天気だったか、食べたものや読んだ本、順調にいったこと、いかなかったこと、色んな話をした。キャンプとは決してイコールで結ばれない、インドア体質の私をよく知る母は、全てを興味深そうに聞いてくれ、無事に楽しめた事を喜んでくれた。そして母は、星が綺麗に見えた?と私に問いかけてきた。

 

私がテントの中で寝返りを打っていた夜中、母は家の前のゴミ捨て場にゴミを捨てに行ったとの事。空を見上げると星がいくつか見れたようで、その時、「ゆみちゃんは自然に近いところにいるから、もっと沢山の星を見れてるのかもしれないと思った」と母は言った。

 

私はそれを聞いて、その日の夜、一度も、ほんとに一度も空を見上げなかった事に初めて気付いた。19時過ぎにはテントに入って本を読んでいたが、何度かトイレには行った。でも、暗い中での移動は終始ソワソワし、早歩きで行って戻って、テントのファスナーを閉めてホッとする、という状況だった。今思うと、めちゃくちゃ視野が狭かった。ソロキャンプという初めての経験という事ももちろんあったが、コロナ禍に入ってから夜に出歩くことが殆ど無くなったのも影響してると思う。今まで当たり前だったことがそうじゃなくなった。

 

「うわぁー空見なかったわぁ・・」と正直に言い、母とメモリアルな感情や景色を共有出来なかったことが残念だった。次こそは、と思いつつ、以前、朝起きれないから後ろめたい気持ちで夜中にゴミを捨ててると言っていた母が、そんな中でも空を見上げ、星に目を留め、私のことを考えてくれた事実が、あれからずっと胸の中でキラキラと光っている。

 

次は、星綺麗だったよって報告したいな。

なんとなくだけど

なんか今まで、優先順位って大切な順みたく考えてた。でも、順位を低くしていたからって、その思いが小さかったわけじゃ無く、実は巨大だから、ぎゅっと丸めて小さくしていたのかもしれない、って思った。

 

今はまだまとまらなくて抽象的なことしか書けないけど、少しだけ自分のことがわかった日だった。