覆面読書会の雑感

昨日、Twitter上で覆面読書会の投稿順を発表しましたが、念の為こちらでも。

1 けんすさん

2 あみさん

3 まつさん

4 ロンペさん

5 DDDさん

6 ゆみ

7 あべちゃん

8 みかんくん

全員分当てた人はゼロで、5人を当てたけんすさんが最優秀賞でした。

このパソコンの元に7名分の原稿が集まってきたわけですが、なんだろうなぁ、思いの塊を受け取った感がありましたよ。ミスなく投稿せねばと気合が入りました。ムーンパレスを読んでいる時、今この瞬間、他の誰かも読んでたりして、もしかして同じページ読んでたりして、なんて考えてました。「北の国から」の純君とれいちゃんが同じ時間にレンタルビデオを再生していたみたく。一人で勝手にロマンティックさに浸っていました。みんなと会った回数は少ないのに、自分の事知ってもらっている感じがするし、交わした言葉の数よりもずっと多くの何かを共有している感じがしています。ありがとう。みんなの文章、読めてとても嬉しかったです。また!

覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.8

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

ちびまる子ちゃんの漫画、何巻だっただろうか。失念してしまったが、青春について考える話がある。まだ青春とは無縁の精神年齢であるまる子が祖父の友蔵に「青春とはなにか、いつ始まって終わるのか」と質問するという話だ。

話の結論としては同じ質問を母であるすみれにしたところ具体的な年齢(15歳から27歳だったような)を答えられてしまい、とっくにすみれの提示する青春年齢を超えてしまっていることに友蔵がショックを受けるというオチだ。そう友蔵の青春は気が付かないうちに始まり、また知らぬ間に終わっていたのだ。

 

 『ムーン・パレス』の主人公フォッグは特別な環境だが、普遍的な愛を受けて育っている。父とは面識がなく、母とは幼いころに死別しているが替わりとなる叔父がいた。

叔父はフォッグに多くの愛と財産をくれた。この話はその財産を失っていくことから始まる。若さゆえか、無知ゆえか未来を見据えない自堕落な主人公の人生の屈折から、偶然手にした一筋の光をたぐり、また立ち上がるストーリーだ。

 

 少々脱線だが、上記した青春とは何かということに触れていこう。広辞苑では 「夢、野心に満ち、疲れを知らぬ若い時代。主として十代の後半から二十代までの時期を指すことが多い」

とある。後半の年代に関しては主人公は合致しているが、前半はどうだろうか。主人公は祖父の死後、自らの預金残高と平素の生活費を計算し、具体的に蓄えが尽きる日がわかっていたが、その危機を脱する努力をしない。結果無一文になり、アパートを追い出されてしまう。夢、ましてや野心なんて微塵もない生活だ。

 

 ではなぜフォッグはこんな自堕落な男になってしまったのか。彼はこれまでの人生で父、母、そして最愛の叔父を失ってしまう。それは深い絶望だが、それと同時に彼は生きる基盤を失ってしまったのだ。また彼の夢想的かつ、虚勢をはった性格から自分の哀しみや貧窮を打ち明ける友人を持っていない。その夢想と虚勢に救われたのはほんの短い期間にしかすぎず、彼の心の虚無が広がっていく感覚と生活費が底をついていく様子が、部屋の段ボールが徐々になくなっていく様で深く感じ取れる。彼は自ら発しているSOSを誰にも感知してもらえなかったばかりか、自分でさえ気が付かないようにしていたのだ。

 

 その後フォッグは偶然かつ、運命的な出会いを繰り返し復活していく。その様子はいい意味でも悪い意味でも物語的だが、彼の数奇な運命は小説として面白いだけでなく、彼の人生の今後をしっかりと担う確固たるものになる。彼は多くの出会いと別れを経験することによって自分の足元、さらには自分の背後に知らず知らずのうちに出来ていた足跡の存在に背中を押されるのだ。

 

 月というものは不思議だ。満ち欠けが存在する。しかしそれは我々から見えていないだけであって月は丸く、常に存在しているのだ。フォッグの物語は新月に近づきながら始まる。新月になると月は見えなくなってしまうが、あとは空白を満たそうと、まさに新しい月として光を発するのだ。

 

 この小説はフォッグが高台から満月を見上げて終わる。彼は満月を見ながら何を考えたのであろうか。自らの過去か、将来か。最愛の女性に泣きながら訴えられた「自分を大切にして」という一言か。自分を大切にしてと言ってくれる愛を手にすることができたフォッグはもう過去の自分のようにはならないだろう。

 

 フォッグは青春と、彼の人生を手に入れることができたのだ。それはかつて自分が手放したテーブルやベットだった本たちの中に書かれていたような。

 

覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.7

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

筆者がこのムーンパレスという人物喜劇、もしくは悲劇の感想を書こうとしても何から書き始めればいいのか悩む。こういうときは思いついたところから書き始めることにする。

 

これは感想文を書くという目的なので、この物語と自分の人生(自分の経験と言い換えた方がいいかもしれないけど)、物語と自分との接点を見つけていく作業だ。当然だが筆者は、母親が交通事故にもあっていないし、大学時代に数千冊の本も読んでいないし、聡明な哲学的思考も持ち合わせていない。しかし、時代も土地も違うムーンパレスという500ページ強の物語に自分自身を近づけていきたい。

言い換えると批評する気は更々ないということだ。「ムーンパレス」が大胆な3部構成になっているとか、奇跡が起こりすぎる物語だとか、バーバーがティーンエイジャーのときに書いた小説がこの小説の概観を捉え、かつ大きな奇跡について言及している件とその物語的な効果とか、批評的に論じることは避けたいと考えている。筆者の感想文を読んでもムーンパレスが読みたくなることも、逆に意欲が失せることもないだろう。感想文を書くことによって筆者が自ら認識していない自分自身の輪郭線が見えてきたら、ムーンパレスという作品を味わい、身体の一部として消化吸収できる最高の結果ではないだろうか。

 

少しでも読めば分かることだが、この小説は一人称視点で書かれている。さらに言うと心理描写、とくに本人の語っている部分が大半を占める。会話が少なく、主人公が内部へ内部へと思考を続けていくのはムーンパレスの大きな特徴の1つかもしれない(~かもしれないというのは、筆者が同時代の海外文学に疎いので比較対象がないためである)。主人公の思考の道筋が明らかなのは読書における幸福な点の1つだ。普段の生活で他人の思考が手に取るように分かることはほぼ不可能であるし、例えば映画を観ていても主人公が何を考えるのかを全て言語化してくれることはない。逆にそんな映画があったとしたら、「心の声が全部聞こえるなんて演出、演技が下手!」なんて評判がネットに出回るだろう。得てして俳優が難しい顔して立っていればいいのかというと、それがいいとは筆者は思わないが、観客は「文章化されている分かりやすい」演出を求めていないはずだ。「太陽」(2016年 監督:入江悠)を観たときも、主人公の神木隆之介が絶叫するシーンは評価が割れていた。「分かりやすく絶叫するのはリアルではない」そうである。その点、今作の「ムーンパレス」の主人公であるフォッグは常に心の声を発し続けている。嘘をついているという可能性もあるが、しいて嘘をつく必要もない。彼の思考は全てが分かる。神木隆之介が常に絶叫しているかの如く、フォッグは自分の心をそのまま読者に提示している。

 

読み進めていくと、徐々にフォッグの思考回路を自分の思考回路に同期していくような感覚になる。フォッグの目を通して自分が世界を見ているような、フォッグの肌を通して風を感じているような、マルコヴィッチの穴に入るがごとく、薄皮一枚隔てた没入感に囚われていく。例えば、卵を落とすシーンでさえ、筆者は気持ちが暗くなった。また、電車で丸い石を想像するシーンではフォッグと同様に石の形を想像した(しかし失敗した)。

 

他人の思考を自分と同期していくというのは小説で最も豊かな瞬間であり、「ムーンパレス」は極めて没入度が大きく、幸福な作品の1つだと感じた。

 

全体が彼の自叙伝的であると言っても間違いはない。フォッグは物語の始めから、人生のある地点から振り返って文章を書いている。そのため、物語は何度か時間が飛ぶ。キティという名前は冒頭に登場しており、元友人宅で彼女と会う前に運命的な出会いだと意識させられる。

遠い未来の街角で友人とすれ違うと言及もされる。この物語を読んでいると、読者がフォッグ化されていくのと同時に、フォッグがどの地点から自叙伝を書いているのか強く意識させられる。どんな状況で書いているのだろうと想像させられる。

 

自叙伝というと、中盤、エフィングも自叙伝を執筆しようとする。エフィングの命は風前の灯であり、それは本人も認識している。老人が過去を振り返るように、フォッグも死を目前に振り返っていたのではないか、この物語はフォッグの死によって締めくくられるのではないか、と不安が頭によぎる。月は死のメタファーだ。

 

中盤から終盤にかけては、エフィングの死を皮切りに死の匂いが一層濃くなる。キティの中絶、別れ、実父の死、絶望や孤独を乗り越え多額の富や幸福を得たフォッグをまたしても追い詰めていく。バーバーの書いた物語もより一層、フォッグの死に向けての重苦しい雰囲気を倍増させる。このまま孤独になり死んでいく、もしくは死に近しい状態になるのだと想像し、読み進めるのが憂鬱になる。

 

重苦しい中を必死に読み進めるとフォッグが全てを失い物語が締めくくられる。失ったものは大きいが心は爽やかだ。彼がゼロ地点に立ち、どんな一歩目を歩き出したのか、予言ともいえるバーバーの書いた物語からどのように解放されていったのか、それはこの「ムーンパレス」には書かれていない。だが1ページを読み返すと彼の人生はここから始まったと言及している。踏み出したその先には新しい人生があったに違いない。

 

筆者は彼らとの出会いに勇気づけられた。筆者の現状について言及するのは避けるが、自分自身の皮一枚内側から、2017年の日本の秋の風を感じ、今までの人生の続き、もしくは新しい人生の始まりを生きていくのだ。考えることを辞めず、絶望し、幸福になり、時には孤独になったとしても、月に向けて一歩ずつ歩んでいける、そんな気がした。

 

覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.6

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

そろそろコタツを出そう。秋はいつも控えめにやってくる。読み慣れていない洋書に構えていたからか、主人公が思い切った買い物をする時の「清水の舞台から飛び降りるつもりで」ってセンテンスが妙におかしかった。

 

マーク・フォッグはビクター伯父さんから1492冊の本を譲り受けた。伯父さんの死後、放置していた本を読み始めたのは、彼なりの悼みだった。「そもそもビクター伯父さんの書物収集には、いかなる意味における組織性もなかった。本を一冊買うたびに、書棚の、すぐ前に買った本の隣に置くだけだった。」

 

ここで私の脳内は、別の世界にトリップした。

 

ちょうどいい店が見つからず、彼の家で飲み直すこととなった。エレベーターが上がるごとに減る口数。静けさが騒がしい。「へー、こんな感じなんだ」と部屋を見渡しながら、淡いピンクのストールを折り畳む。部屋の奥には壁一面を覆う木製の本棚。文庫本もハードカバーも漫画も雑誌も写真集も、全てごちゃまぜに並んでいる。ちょっと半笑いで、「本棚すごいね。並べないの?種類ごととか」と聞く私に、「並んでるよ。買った順。」と彼は窓を開けながら答えた。買った順・・・思いがけない答えに言葉が出なかった。時が並んでいる。紛れもない彼の軌跡。この本棚は風を含んでいる。何故か性急に抱かれたくなった。この本をめくった指に、触れた事が無かった。鞄を床に置き、ネイビーの前開きワンピースのボタンに手をかける。「この本棚の前で抱いて欲しい。」冗談だと思ったのか、彼は「ははっ。その辺に座ってて。」と私に背を向けてキッチンへ進んでいった。結構マジだったんだけどな・・・外した2つのボタンを留め、鞄を拾い上げながら、「でも漫画は並べた方が一気読みしやすいよね。ドラゴンボールの背表紙見てヤジロベー2人いるとか思いたいもん。」と考えた。持続しない自分のロマンティック具合に、ふっと息が漏れた。

 

これは感想文ではなく妄想文だとお叱りを受けそう。叱ってください。私だってまさかあの一文にここまでピクンとするなんて思わなかった。読書とは自分を知る作業だ。

 

私は主役の彼に何度も話しかけていた。

カレーくらいなら作るよ。あの人の話長かったわぁ。伯父さんと一緒に観た映画、私も観たよ。80日間世界一周。すっかり旅した気分。日本にも来てたね。「あなたは本当に英国紳士ですわね」「私は私だ」って、くー、渋い!カメオ出演フランク・シナトラ、格好良かった。「急ぐと人生損するわ」ってセリフも良くてね。私も変に焦って急いでいた時期があったよ。今となっては狭い場所に自分を閉じ込めていたなって思うんだ。伯父さんの本棚みたく、世界に一つだけの人生を歩めばいいんだよね。誰に評価されるものでもない、自分なり本棚でいい。誰だって優しくしてもらう権利はあるって言い切れるあなたは素敵だと思う。お疲れ様。何も聞かないから横で飲んでいい?

 

何かを失っても、歩き続ければまた何かに出会う。人は失うものには敏感で、得るものには鈍感だ。ある時ふっと何かに気付く。その瞬間から景色は変わる。卵を落としても、チキンポットパイが無くても、もうきっとあんな風に彼は泣かない。いくつかの出会いと別れが、彼の皮膚を厚くした。もう伯父さんのスーツで武装する必要は無い。人はいつだってスタートラインに立てるんだ。絶望のすぐ横には希望。伯父さんは「何もかもいずれはうまく行くさ、すべてはつながっているんだ。」と言い、力強く彼と握手を交わした。私も彼と、そして、今これを読んでくれている人たち全員と、握手を交わしたい。つながってるよ、私たち。

覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.5

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

フォッグに魅せられて

 

まず私が惹かれたのは、フォッグの孤独な生き方だ。大学も行かなくなった後に全財産を計算して少しずつ貯金を使い叔父さんから譲り受けた本を読みつぶし売って、残高ゼロになるまで生活するという時間の使い方。どことなくニヒリズムも感じられ少しだけ憧れを覚えてしまった。

といっても、実際は貧乏と困窮の間ぐらいの生活でとても耐えられたものではないのだろうが、そのニヒリズムに酔う感じが若者らしい。栄養が満足にとれないことすら楽しんでいる様子があった。

少し前に「仕事を止めて貯金で生活し、貯金がなくなったら死ぬことを決めたブログを読んで」といった内容のブログ記事を読んだ。正にフォッグがとっていたのはそのような生活だ。それでもフォッグは、死のうと決めていたわけではないあたりが面白い。

いよいよお金がなくなりホームレス生活に突入し、生死の境で救われる様はフィクションらしい劇的な様なのだが、普段の我々だって少しずつ人を助けたり助けられたりしながら生活しているのではないだろうか。

そして、結果的にフォッグは祖父であったエフィングと寝食を共にする仕事に就き、さらにはトマスが置き去りにしてきた息子のソロモンが、フォッグの父であったことも知る。この三人は境遇も違えば、肉親がいることすらおぼろげにしかわかっていないのに、不思議と孤独を選んでいるところに、どこか似ているものを感じた。私は人の性格を決めるのは血よりも育ちだと思っているので、それが血の繋がりからくるものだとは思えないのだが、それでもやはり、家族だからなのだろうかと思わせられた。

変わり者たちと対比的なのが、フォッグを助けたキティとデイビッドであったり、エフィングの身の回りを世話するミセス・ヒュームであったりする。彼らはとても当たり前に健全で、キティとフォッグの恋愛は輝かしくも危なっかしく、これぞ若者、と思わされる。そして感じたのが、世界というのはミセス・ヒュームのような健全な人が大半だから成立していて、フォッグやエフィングのような変わり者はカレーライスにおける福神漬けぐらいの割合で存在するのが正常な社会なのだろうな、ということだ。フォッグの冒頭に憧れを覚えた私も、福神漬け側なのだろうか。

 この物語は、フォッグがこの一連の出来事から何年も経ってから回想録として書かれている。歩き続けたフォッグが旅を終えてから、どのような生活を経て『ムーン・パレス』を書くに至ったのだろうか。1948年生まれである彼がどこかで伴侶と出会い子どもが誕生し、今もアメリカのどこかで風変わりな年寄りになっているイメージが、私の頭から離れない。

覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.4

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

孤独と偶然。この印象が強い。

ポール・オースター作品を読むのははじめてではないが、かなり前に読んだため内容はほとんど覚えていない。ただ以前に読んだ作品でもこれを、孤独と偶然、の印象を強く感じたのは覚えている。ポール・オースター作品に共通するモチーフなのかもしれない。

「ムーン・パレス」の話の流れを端的に説明すると、孤独になり、偶然の出会いにより助けられ、また孤独になる、となる。孤独、出会い、孤独。孤独にはじまり、孤独に終わる。しかしこの最初の孤独と最後の孤独は大きく違う。

主人公マーコの唯一の、たった一人の血縁であるビクター伯父さんが亡くなる。このとき伯父はマーコに多くの本を残す。マーコはこの膨大な本を読み、本を売って暮らすようになる。マーコはこの膨大な本に読むことに固執し、云い方を変えれば本を読むことに逃げ、自分を追い詰めることになる。

しかし伯父さんがマーコに対して残したものはもうひとつあるように思う。それはユーモアだ。

珍説のようなジョークが得意なビクター伯父さん。マーコは伯父さん流ユーモアの通になっていく。伯父さんのジョークに対する伯母さんの反応がよくなければ、それについて胸を痛めるほど。伯父さんが悪趣味な絵葉書を送ってくれば、それを自分たちだけに通じるジョークのように感じるほど。こうしてビクター伯父さんはマーコにユーモアの感性を残したのだ。

「ムーン・パレス」は読んでいて楽しい小説である。読了後に何か大きなものが残る、というよりも読んでいる途中がとにかく楽しい。「ムーン・パレス」は青春小説であり、コメディだと思うが、このコメディの大きな部分を担っているのがマーコの持つユーモアだと感じている。そしてこのマーコの持つユーモアは彼自身を助けている。

マーコの窮地を救うことになるかわいい中国人娘のキティ。たしかに彼女との出会いは偶然である。偶然の出会いではあるが、彼女が彼を助けたのは、出会ったときの会話の内容からだと思う。マーコはこの時、とにかく追い詰められた状況であった。余裕がなかった。ただユーモアは忘れていなかった。初対面の連中に対し、「キティの双子の兄弟です」などと宣言をするマーコ。そこを頭の良いキティが見抜いたのだと思う。マーコのユーモアが彼を助けたのだ。

その後マーコはある老人の元で働くことになるが、この偏屈な老人のために働き続けることができたのも彼の持つユーモアのおかげである気がする。

さらにマーコの人生は不思議でやや荒唐無稽に展開する。また何人かの人生が語られるが、微妙にそれぞれが重なるような部分もある。この人生の反芻のような部分もこの作品の魅力かと思う。

マーコは物語の終盤で、再び全てを失う。失い続け、孤独となる。だが伯父さんが亡くなったときの孤独とは明らかに違う。

キティと、老人エフィングと、エフィングの息子であるバーバーと出会ったあとの彼であれば、孤独になっても強く生きていけるだろう。軽く笑えるユーモアと。うまくやり抜く賢さと。大げさに云うのならばきっとそういう事なんだろうね。

 

 

覆面読書会2017秋「ムーン・パレス」エントリーNo.3

※感想文によっては一部ネタバレを含みます。

 

題名:オースターと東洋哲学

 

本作は主人公であるマーコ・フォッグとその一家のクロニクルである。

そのあらすじは冒頭2ページに記されている。

コロンビア大学アイビーリーグに属する名門校。100人以上のノーベル賞授賞者を誇る)に在学していた主人公が、養父である叔父の死に伴い、人生に絶望し路頭に迷う。その過程でキティという女性と出会い、路頭に迷い死にかけていたところを助けられ恋に落ちる。車椅子の老人(エフィング)の世話をするという仕事を始め、エフィングの死後、カリフォルニアまでの砂漠を歩く。主人公は子供の頃から私生児だと母親に教えられていたが、エフィングの死後、父親が誰であるのかを偶然にも知ることになる。

つまり、一人の青年が大学を卒業する20代から、自分の出自を含めたアイデンティティを獲得し大人になるまでを描いた青春小説であるとも言える。

 

本作は一人称視点で語られ、主人公がコロンビア大学出身であることや、遺産として膨大な数の本を手に入れることなど、オースター本人のエピソードと重なる部分も多く、海外作品としては珍しい私小説風である(私小説とは日本文学特有のジャンルであると言われている)。

また、話の最初にその概要の独白があり、その後その詳細を語るというスタイルも独特である。一般的には、「興味の持続」という観点からもミステリー的要素はいいタイミングで提示しそうなものだが、本作では最初に物語の概要を述べる。つまり作者にとって、読者に謎とか驚きを与えることが主眼なのではないことを意味している。例えば、主人公の父親が、車椅子の老人(エフィング)の息子であることが分かる(つまり偶然にも、仕事として介護していた車椅子の老人が実は祖父!)というドラマチックなシーンがあるのだが、読者はその事実を早い段階で知らされる。そのため読者はミステリー的観点ではなく、情緒的な視点でその事実を感じ取り、考えることができる。

 

オースターの作品を読むのは初めてだったが、他の翻訳小説と比べて非常に読みやすく、登場人物の考えに共感する部分が多かった。何故なのだろうかと考えていたのだが、もちろん理由の一つとして翻訳者の力も大きいのだが、この作品から、東洋的、仏教的観念を強く感じたことも理由として挙げられる。つまり親和性が高かったのだ。

本感想文を書くにあたってオースターのことを調べたが、彼と仏教や東洋文化との繋がりを見つけることはできなかったので、以下はおそらくは私の妄想である。

どのような点に東洋的要素を感じたのか。

それは、縁起(全ての現象は単なる偶然ではなく、色々な物が絡み合い縁として生じるという考え方)や因果といった東洋・仏教哲学に、影響を受けているかのような事件が多々起こる点である。

例えば、主人公はセントラルパークを彷徨うようになるが、その過程で主人公が考えるそれらはあたかも仏陀が解脱する前のようである。またその放浪期間に主人公は「いいことが起きるのは、いいことが起きるのを願うのをやめた場合に限られる」という非常に東洋的思考にたどり着く。主人公が彷徨っている間に、見知らぬ人から施しを受けることにより何度も危機的な状況から助かったと言う場面があるが、後に主人公とエフィングとが、貧しい人にお金を施すシーンとの因縁を感じ、それらの行動が時空を超えてギリギリの状態の主人公を助けたのではないかと想像してしまう。さらに主人公の祖父であるエフィングが、その昔、砂漠で彷徨い生きるというシーンは主人公がセントラルパークで彷徨った事件とのアナロジーを感じさせ、親族間での因果、因縁を想起させる。一番大きな点としてはやはり、偶然世話をすることになった車椅子の老人が実は祖父であるという、一見すると偶然この上ない事件も、フォーチュンクッキーの「月は未来」という言葉が、エフィングの憧れの人であるテスラの書物からの引用である点など、偶然を必然であるかのように見せる工夫により、縁起、言い換えるなら運命論的であるかのような印象を与える場面であろう。もちろん、登場人物や、時代や街の空気感の丁寧な描写が、この作品を魅力的なものにしているのは間違い無いのだが、オースターの運命論的、縁起的な観点が私にとって親しみやすいものにし、さらにはこの作品を特徴づけているのではないかと思う。

蛇足だが、エフィングは幼い頃に、エジソンニコラ・テスラという実在の人物に遭遇する。エジソンはGE(セネラル・エレクトリック)を設立し、テスラはウエスティングハウスと関係が深く、それら両会社はその後世界を代表する重電メーカーとなる。私の高校時代の親友が東芝に入社し、M&A部門に配属され、その東芝はウエスティングハウスを買収し倒産の危機に瀕することや、私が興味を持ってその動向を追っているイーロンマスクが電気自動車のテスラ・モーターズ社(社名の由来はニコラ・テスラ)を設立することなど、これらは現在の日本や私の実生活とも地続きであり、図らずも繋がり・因縁を感じた。

今後、オースターの他の作品を読み、映画「Smoke」を観て、彼の作家性をもっと深く知りたいと思った。